初期の頃の想い出  (3期 春日 信雄 さん)

1982(昭和57)年10月 1日発行の『出雲高校東京同窓会会報「たかのさわ」第1号』に掲載された文章をご本人の了承を得て転載させていただきました。

○設立まで

 1970(昭和45)年初夏、津田 玄児君( 4期、弁護士)と、古川 教君( 6期、当時ダイキン工業)から、相前後して私に電話があった。
 「母校の長廻先生が出張で上京されるので在京有志で集りたいが・・・」ということだった。
 その週末の宵、新宿で、15期位迄の方が集り、話し合うために、東京でも各期毎の集りはあるものの統一的な集会を持ち、タテとヨコで結んだらという考えが集った皆にも潜在していたため、自然に「在京同窓会」の発足のムードとなった。
 その集会に、たまたま、 1期、2期の方が来ておられないこともこともあって、一番年輪の多い私が、同窓会発足の責任者に祭り上げられてしまった。
 新宿での会合の後、発足総会を準備するため、津田、古川君らと、互いに勤務先が近いこともあって、再三、有楽町付近で、一杯飲みながら打合会を持ち案を練り合った。
 東京では、どんな組織にするか、私は筋を通す意味で、当時久徴会東京支部長だった大正生まれの某夫人を、東京・大田区の自宅に訪れ話し合うこととなった。
 しかし、サラリーマンと有閑夫人との差で感覚的に相当波長が違うと痛感したので、幹事諸君とも相談し、形式よりも中味のある会とするためには、対象を「関東地方に学び、働き、生活する卒業者」とすることとし、久徴会傘下ではなく、独立した名称もずばり「出雲高校東京同窓会」とつけることとなり長廻先生へも電話で報告した。
 会の目的と趣意については、私も在籍している旧制大社中学の在京同窓会「東京いなさ会」の状況が、近年来、若い世代が寄りつかず、その背景として「老先輩や、寄付金を多く出した者が自然に巾を効かし、一部の栄光を得た人だけにスポットライトが当たる会となりつつあることが尻つぼみとなっている」と痛感していたので、我々の会は、その点を逆に注意すれば内容ある盛り上がるものになるのではないかと考えた。
 「東京いなさ会」の如く、歴史も古く、政財界の実力者が多い会の構成と違って、我々の会は、優秀な人材豊富とはいえ、年齢的にやっと 1期の方が40歳では、母校卒業生の就職の世話がどんどん出来る社会年代層ではない。
 むしろ、人の世話どころか、大都会の荒波の中で、自分の生活基盤を築き且つ守ることに一生懸命という年代層の実態からも、身近な目標として、「縁あって同じ東京の屋根の下で生活し、仕事に励む者同志が、はげまし合ったり、助け合ったりする会」、つまり中味のある親睦会としようと幹事諸君と会の趣旨、目的につき話し合った。

○第1回総会のこと(1970(昭和45)年11月25日開催)

 1970(昭和45)年11月に、発足第1回の総会を開くに当たって各期の幹事に何回か集まってもらい、まず対象者全員をチェックしたら、居所が判った方が1,100名位、住所未確認を入れると約1,800名位居るとの皆の話し合いから、関東地方の人口が約 2,000万人強として、約1万人に一人はわが出雲高出身者が、この東京を中心にあらゆる分野でがんばっていると思うと、何かたのもしく感じたものであった。
 会社の設立と違い、払込資金もないので、少々の自腹は止む得ないとしながらも、大赤字となると、安サラリーマンの私など困るので、発足第1回総会だけに、何人位出席してもらえるのかという点と、大赤字とならないかというのが心配事で、そのため、各幹事に、いろいろ発想を求め、ゴザを敷いて皇居前広場でという意見もあったが、集まるのに解り易い場所、出欠状況に対応し易いことなどから、高山重子さん( 2期)の努力もあって、新橋第一ホテルでの立食式中華料理となった。
 準備金なしをカバーすべく、幹事が勤務先の消耗品を持ち寄ったり、印刷も稲谷順子さん( 6期)に格安にしてもらったり、無料広告ということで、朝日新聞の同窓会通信にも掲載し、結果は、予想を上回る100名を越す出席者で、収支も、僅かに黒字で終わり、やれやれだった。
 第1回総会で、想い出深いことは、現在住友金属勤務の小田雄一君(20期)が、その秋、東京六大学新人戦で、早稲田大学の投手として優勝の原動力と、新聞が、大きく本人の写真と出雲高の名を載せ、早稲田の新しいエース登場と報じた後だったので、タイミングよく総会に出席した彼を紹介したことだった。新人戦とはいえ、わが会員の活躍が、船出したばかりの「出雲高校東京同窓会」の前途を祝福し、会の将来とダブッて感じたからである。
 余談であるが、以後リーグ戦で小田投手が出る試合で、神宮球場のスピーカーで、「早稲田大学ピッチャー小田君出雲高校」と出身校名が神宮の森に響き、アナウンスされるのが気持ちよく聞けるのでよく応援に通ったものだ。
 この外、会として俳優桐原史雄君(14期)の公演芝居の入場券を手分けして売り捌いたりしたのもなつかしい想い出だった。

○不愉快な想い出

 不愉快な想い出としては、新宿のクリスマスツリー爆破事件【註、1971(昭和46)年12月24日】の犯人の疑いで、某女性会員につき刑事2名が、数回私の会社を訪れて来たことだ。数回私の会社を訪れ、彼女が逃亡後の中野区のアパートの郵便受けに、代表幹事名が私の名で同窓会の案内状があったことから、行方をしつこく聞かれ、「所在が解ったら連絡するよう」と言われたが、以後放っておいた。これも代表幹事の名誉税かとも思った。
 憤慨したことといえば、代表幹事を退いて数年後、新宿での総会の冒頭、母校の新任校長が、「学校の設備費も予算が乏しく・・・」と述べた後、場内に寄付金の奉加帳が廻されたことだった。
 同窓会イコール寄付金集めの組織細胞としか考えなぬ次元の低い概念、私は一番恐れていたことだけに、無神経な校長に対し、「県立高校に設備費が不足し、どうしても必要なものなら県の教育委員会にでも言うべきでないか、教育委員会に頭下げるより、我々に対してが言い易いかもしれないが、久々に友達と逢うのを楽しみに集まって来た会員を前に、いきなり、寄付金を募るような真似はしないでくれ、こんなことで飛行機に乗って出席するならもう来ないで欲しい」と、丁度、小村行男久徴会長( 1期)も同席だったので、失礼かと思ったが文句を言った記憶がある。
 さらに後日、憤慨に輪をかけたのは、当時代表幹事( 2期)の男性某が、その寄付金の一部を着服流用したと聞き、且つそれが事実だと判った時であった。
 励まし合う地味な会と誓い合ったのに、会員も増え形式的な組織に流れ易くなると、世の中と同じで、我々の会にもいろんな死角が出てくるものだと感じた。

○会の発展のために

 私は、ルールもなくスタートした代表幹事役を、どう次代の層にバトンタッチするか、他校の悪例もあるので、「老人サロン化 」しないよう、ルールで若い世代に引き継ぐように出来ないものかと考えた。
 今後への一つの考え方として、リーダーとなる代表幹事役の年令は、卒業間もない20代では無理があるので、ある程度、物的、時間的にも、余裕の出来る40歳前後とし、選出方法は、毎年代表幹事が変わるのも、会の考え、流れがコマ切れになるので、 一区切りを 3年間として、 3期(年)で連帯して責任をもち、連帯担任した 3期の中で互選し代表幹事を決め、3年後に次の 3期(年)に引き継ぐというものである。
 しかし、この私案をルール化するに至らぬうちに、いつの間にか私自身も「 3年間」が過ぎ、また勤務先の関係で海外出張が多くなり、その任を負えぬ状況となったので辞めさせて貰うことになった。
 1973(昭和48)年の第4回総会からは、若い年代へとは逆になったが、気は若い 1期の小汀良久先輩が代表幹事として会をまとめられることとなった。