第169回「大阪渡船巡り(1)」報告(12期 池田さん)

2021年11月7日(日)

行先:大阪渡船巡り(1)

参加者:11名(伊藤、飯島、太田、大谷、大西、高橋、高良、柳楽、原、森、池田)

コース:JR大正駅9:45 → 大正橋公園10:10 → 大正橋10:20 → 三川合流(木津川・尻無川、道頓堀川) → 津浪記石碑10:30 →南海電鉄汐見橋駅11:10 → 津森駅11:20 → 落合上渡船場11:45 → 千島公園・昭和山(昼食)12:50 → 落合下渡船場13:30 →千本松渡船場14:10 → 南恩加島バス停14:40 → JR大正駅15:00

 

報告:

コロナ禍で延期していた<大阪渡船巡り>やっと再開する事ができました。

今回 大阪を知りつくす 12期の 伊藤 巌さんにガイドをしていただきました。

 

JR大正駅に11名が元気な姿を見せてくれました。

予定より15分遅れで出発(環状線内で接触事故があり遅延)。

大正橋公園で「大正区の歴史・なりたち」の説明を聞き大正橋へ。

橋の欄干には ベートーヴェン作曲の「歓喜の歌」の楽譜が、また歩道には、メトロノームとピアノの鍵盤がデザインされていました。

三川合流・津浪記石碑を巡り南海電鉄汐見橋駅へ向かいました。

津森駅下車(都会の秘境駅・・・?) 大日本紡績跡地・西成公園を横切り落合上渡船場へ(西成区北津守2丁目←→大正区千鳥1丁目を結び、岸壁間100m)20分程歩き千島公園・昭和山で眺望を楽しみながら昼食を摂り、12:50出発。

落合下渡船場(大正区平尾 ←→西成区津森2丁目岸壁間138m)この辺りは毎年10月から4月にかけて数百羽の ユリカモメが飛来するとの事ですが 残念ながら見る事ができませんでした。

30分程歩き千本松渡船場へ(西成区南津守2丁目←→大正区南恩加島1丁目岸壁間230m)木津川の川尻に近く岸壁間も広くなっています。

千本松大高橋を見上げながらの渡船、何時か橋上から舟を見下ろしながら渡ってみたいですね。

今回はここまで。近くのバス停を捜しJR大正駅へ戻りました。

久し振りに皆さんにお会い出来 元気に楽しく歩けた事とても嬉しく思いました。 伊藤さん、素晴らしいガイド 有り難うございました。

皆様お疲れ様でした。

第168回「日本最古の道<山の辺の道>歌碑巡り 第2回」報告(11期 原さん)

前回に次いでの歌碑巡りです。

 

2020年11月29日(日)

行先:日本最古の道<山の辺の道>歌碑巡り 第2回

集合場所:近鉄・JR 桜井駅北口

参加者:7名(池田・大谷・長澤・荒木・高橋・原・大西)

コース:近鉄・JR 桜井駅北口より JR巻向駅まで 約7㎞

 

報告:

桜井駅北口9:40出発。参加者は少なかったが、皆サッサと歩き1.5㎞先の<仏経伝来之地碑>まで25分で着く。初瀬川(大和川)堤防の上にあり、側に万葉歌碑37番と36番の二点(いずれも作者未詳)あり。

土手を降り、少し行くと38番作者未詳の歌碑。

『紫(むらさき)は 仄(ほの)(灰)さすものぞつば市(いち)の八十(やそ)のちまたに逢へる児や誰』

(つば市の辻で逢った貴女は、何という名前ですか。 揮毫は、今東光さん)

仏経伝来之地碑より0.7Km先、金屋(かなや)の村はずれ、今は住宅地の中の小堂の中には、<金屋の石仏>2体。

平安時代に、古墳の墓蓋に、釈迦如来像と弥勒如来像を彫った物(重要文化財)。

すぐ側に33番作者未詳の歌碑があり、「山邊道」の石碑を見ながら進みます。

そこから0.3㎞先、小高くなってきた所にある平等寺入口辺りに、34番柿本人麿の歌碑があった。

その先、0.4㎞に大神(おおみわ)神社(三輪明神)、(背後の三輪山が御神体、樹木に包まれた

境内に本殿は無く、拝殿と三ツ鳥居があるのみ。酒と薬の神様として知られている)。

境内には35番長屋王『うま酒三輪の祝(はぷり)(社)の山照らす秋の黄葉(もみじ)散らまく惜しも』と、30番倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)の『大和はくにのまほろばたたなずく青垣山ごもれる大和しうるわし』、揮毫者は黛 敏郎さん(五線譜で♪あり)。

少し歩くと、狭井神社があり、ここで集合写真を撮る(11:00)。

ここから畑の路を通り、狭い川に「狭井河」の看板がある。

すぐ側に31番伊須気余理比売の歌碑(11:30)、32番天武天皇の歌碑(11:40)を見て、1㎞あまり先に平安時代の高僧・玄鬢僧都が修行した所という<玄鬢庵>(謡曲・三輪の舞台としても知られているところ)の境内を壁伝いに行きます。

山裾を歩いて行くと27番高市皇子の歌碑を通り、次に28番柿本人麿の歌碑のある桧原神社に12時すぎに着きました。

昼食は桧原神社より少し西にある桧原「わらべの里」。

水森かおりの記念歌碑のある広場で石に腰かけたりベンチに座ったりし、コロナ禍のため間隔を開けて食べました(12:15)。

食後、桧原神社より0.2㎞離れた井寺池畔にある24番歌碑は30番と同じ歌(やまとはくにのまほろば・・・)でしたが、揮毫者が川端康成さん(読みやすい字でした)。

池のはるか向こうに金剛山や二上山が遠望できる絶景の写真スポットです。

すぐそばに25番・天智天皇『かぐ山は畝火ををしと耳成と相あらそひき神代よりかくなるらしいにしへも しかなれこそうつせみもつまをあらそふらしき』揮毫は東山魁夷さん。

少し先の白い椿の大木の根元に26番作者未詳の歌碑、山の辺の道から少し離れたところに21番柿本人麿の歌碑(揮毫は千宗室さん)。

ここは池田さんと大谷さんの下見のお蔭で見る事ができました。

井寺池より山の辺の道に戻り、29番柿本人麿を見て(12:55)、畑や農家の路も通り22番高市皇子、23番柿本人麿(痛足河・・・)、18番柿本人麿(巻向の山邊をよみて・・・)、19番柿本人麿(あしひきの山かも高き・・・)、20番柿本人麿(あしひきの山川の瀬の・・・)、15番柿本人麿(三室のその山なみに・・・)、16番柿本人麿(ぬばたまの夜さりくれば・・・)。

その後、前回の歌碑巡りで歩いたところまでたどり着き、坂道を登り相撲神社(野見宿祢が祀られている)へ。

鳥居脇に17番柿本人麿(巻向の桧原も未だ・・・)を見て(14:40)、少し登り坂を行き穴師坐兵主神社の境内にある13番作者未詳の歌碑を見ました。

これで、前回と合わせて山の辺の道の歌碑38か所を巡ることができました。

前回も通った道、左に珠城山古墳群、右は住宅や畑や池・田んぼを見ながら、JR巻向駅に向かって下りました。3:20頃に巻向駅到着、解散となりました。

今日も好天に恵まれ、農家の軒先や無人の小屋で、ミカン・里芋・ししとう・柿・高菜・梅干しなど一袋100円で買い、皆さん朝よりも膨らんで重くなったリュックを背負い家路に着きました。

 

※  一と百の会は、コロナ禍で暫く休みます。

第167回「日本最古の道<山の辺の道>歌碑巡り」報告(14期大西さん)

2020111日(土)

行先:日本最古の道<山の辺の道>歌碑巡り 第1回

集合場所:JR・近鉄 天理駅

参加者:13名(池田・大谷・原・伊藤・太田・長澤・森・飯島・谷口・谷口・荒木・高橋・大西)

 

報告:

2月の「大阪七福神めぐり」以来、待ちに待った例会です。

久しぶりの出会いに、みなさん笑顔で集まりました。

 

9:30出発、リーダー池田さんから渡された「山の辺の道ハイキングコース」のパンフレットを見ながら、駅前商店街を抜け、天理教教会本部の建物を左に見て、石上神宮を目指す。

今日は神宮を素通りし、歌碑巡り。

先ずはパンフレットの2番目にある歌碑に出合った(10:25)。 

作者不詳 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の神(かみ)杉(すぎ) 神(かみ)びにし 我(われ)やさらさら 恋にあひける

次に、1番 柿本人麻呂(10:35)、3番 僧正遍照(10:45)の順に見ながら山道を行く。

4番 松尾芭蕉(10:55)の句碑もある。5番 十市道忠(11:10)。

すこし紅葉が始まった樹々、柿やみかんの畑が延々と続く細い道や山裾を、足元の石畳に注意しながら進む。

農家の軒先や道ばたの無人の店にも柿・柿・・・。

茎についてる綿も売っていた。洋綿は綿が大きいが和綿は少し小さい。

東乗鞍古墳、夜都伎神社を過ぎ6番 東畝。

そして田畑の間を歩いていくと、二上山の特徴のある山が遠望できる。

田んぼの稲わらが数束ずつ茎を下にして立てかけてあり、田舎の猪巣を思いだした。

12時すぎ、ベンチのある休憩所で食事タイムとなった。あちこちからお菓子や果物の差し入れが回ってくる。

食後、全員で記念撮影し次を目指す。

竹之内環濠集落を抜け、7番目の碑 柿本人麻呂(13:00)。

萱生町集落西端には、西山塚古墳がある。萱生(かよう)環濠集落、ひとつの池には赤い金魚の群れがあちこちにいた。

衾田陵の看板を見ながら進むと、8番 柿本人麻呂の碑(13:25)。

衾(ふすま)道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし

「引手の山に妻の屍を葬って帰ってくると 悲しくて生きた 心地もしない。」

悲しい歌に感傷的になった。振り返ると畑一面のコスモスが満開。

9番 十市遠忠の歌碑が長岳寺門前にあり、数歩先に10番 十市遠忠(13:50)。 

10番目の眼前に天理トレイルセンターの大きな建物がある。

ソフトクリームが美味しそうだった。無料のお茶をいただき乍ら休憩。

全長242mの崇神天皇陵を右に見て畑の間を行くと、11番 作者不詳(14:20)、

12番 竹田無涯子の(14:25)碑。

ひたすら歩き、景行天皇陵を見ながら暫く歩く。

14番 額田王の歌碑に到着(14:50)。

山の辺の道のポスターにある見慣れた歌碑と景色だ。向こう見えるのは三輪山?

一度この場所に来たかったので、感激!

13番は次回にし、今日はここまでということで、JR巻向駅へと向かった。

歩いていると汗をかくほど、最高のお天気に恵まれ、無事に終了。

良い空気を吸って楽しい一日をすごせた。

 

写真は谷口様からご提供いただきました。ありがとうございました。

 

第166回「大阪七福神めぐり」報告(25期 谷口さん)

【REPORT】

今年の『一と百の会』は、遠出や急ぎ足の旅をひかえて、の~んびりゆっ~くり歩こう! というのが企画テーマだ。

その1回目となる「大阪七福神めぐり」に出かけた。

 

2020年2月2日(日)

行先:大阪七福神めぐり

参加者:13名(関西久徴会会員外3名含む)

巡拝ルート:①寿老神・・・三光神社、②福禄寿・・・長久寺、③弁財天・・・法案寺

④毘沙門天・・・宝満寺(大乗坊)、⑤日出大国神・・・大国主神社、

 

⑥えびす大神・・・今宮戎神社、⑦布袋尊・・・四天王寺布袋堂

■節分前日の七福神めぐりで一日早めの「福は内」

JR大阪環状線の玉造駅に10時に集合。道中のなんばで昼食休憩(自由行動)をとり、天王寺界隈で15時ごろ解散した。

新型ウイルスが懸念されるなか、大阪市内を4時間近くマスク着用で歩いたが、好天に恵まれ、入念な下見をしてもらっていたおかげでスムーズに進み、行楽気分で巡拝することができた。

折しも2月2日、節分前日の七福神めぐりとなり、一日早めの「福は内」となった。

 

【MEMO】

七福神と聞くと、宝船に乗っている縁起物の絵が思い浮かぶけれど、ルーツをはじめ意外に知らないことも多かった。

そこで、ネットで検索しながらおさらいをしてみた。

 

■そもそも七福神はすべて日本オリジナルの神様?

七福神というのは一般的に、恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人とされ、メンバーの顔ぶれを見ると、なんともエキゾチックな感じがする。

それもそのはず、恵比寿を除く六柱(はしら:神様の数え方)はもともとインドや中国の神仏で、室町時代に七福神としてグループ編成され、日本古来の信仰と合体していったそうだ。

 

 

■七福神めぐりというのはマニアック? ※添付写真d

たとえば七福神の代表格である恵比寿の場合、商売繁盛のご利益を授かるため、正月の十日えびすに詣でる風習がよく知られている。

一方、七福神が祀られている社寺を巡拝するのは、結構マニアックな感じもしていたのだが、江戸時代に広まり、現在も正月を中心に全国各地で盛んに行われているようだ。

「大阪七福神めぐり」では、七福神が描かれた大きめの色紙を購入し、七社寺をまわって御朱印を書いていただくのが人気らしい。

 

■大黒天と大国主命は「だいこく」つながり!

いわゆる七福神の大黒天は、ヒンドゥー教・仏教の大黒天と、出雲神話でおなじみの大国主命(オオクニヌシノミコト)が、ともに「だいこく」と音読みできることから、次第にイメージが重なって一体化したものとか。

そういえば、「大きな袋を肩にかけ だいこくさまが~♪」と、大国主命をだいこくさまと呼んでいた童謡を歌っていたなあ。

 

 

■仏像のような大国神にたまげた! ※添付写真e・f

大黒天のトレードマークといえば、大きな袋と打ち出の小槌。

だから、大阪七福神めぐりでお目にかかった「日出大国神」にはたまげた!

なんと米俵の上で坐禅を組み、手は印を結んでいるかのごとく・・・仏像のようにも見えるのだ。もしそうであれば神仏習合の極みというか、ごちゃまぜの秘宝感がなんともおおらかだ。

ちなみに、拝殿前には狛犬の代わりにねずみが鎮座している。

 

大国主命と言えば「因幡の白うさぎ」のエピソードが有名だが、実はねずみとの縁も深い。古事記によると、スサノオノミコトから、娘であるスセリビメをめとるための試練を与えられたとき、大国主命を助けたとされている。

第165回「お城へ行こう 第32回 松山城(愛媛県)」報告(14期 大西さん)

日時:2019年12月1日(日)~2日(月)

行先:松山城(愛媛県)

参加者:8名(池田(L)・立花・原・大谷・長澤・飯島・荒木・大西)

往路:阪急バスターミナル 8:50発 いよてつ高速バス松山市駅行 → 松山市駅着14:40

復路:松山市駅発 15:00 → 阪急バスターミナル着20:00      

 

いよいよ<お城へ行こう>も最終回。

 

報告:

12月1日(日)

快晴の大阪を伊予の国めがけて発車した(立花さんは神戸から別便で)。

二度のトイレ休憩の後、予定より約20分早く到着。立花さんと合流。

先ずは、バスで四国八十八ヶ所51番札所熊野山虚空蔵院石手寺へ。

立派な仁王門は国宝、蟇股は運慶作、左右の仁王像は湛慶の作らしい。

山門を入ってすぐに立派な三重塔がある。本堂にお参りの後、パワースポットといわれる密教胎蔵界と金剛界のあるマントラ洞窟へ入る。暗い中を奥へ進む。でたところは道路。小高い山の上にある日本一の弘法大師像を見たのち、マントラ洞窟をくぐり元の場所へ戻り、境内を回った。

徒歩で道後温泉へ行くことにしたが、途中にある「松山市立子規記念博物館」へ立ち寄る。

道後・松山の歴史、正岡子規とその時代、子規のめざした世界、子規直筆の絵やちょんまげ姿の写真等たくさんの資料の陳列や映像、子規の仲間たちである夏目漱石他に関する資料等々、閉館時間ぎりぎりまで見学。見ごたえがあった。

秋山好古・真之兄弟も松山出身。大河ドラマ「坂の上の雲」の資料もあった。

見学後、道後温泉へ急ぐ。途中に大勢の人だかり、午後5時すぎなのでカラクリ時計が動いているのかもしれない。

日本最古の湯といわれる道後温泉に到着。有名な道後温泉本館の外観を眺め、入湯はすぐ近くの別館の飛鳥乃温泉(あすかのゆ)へ。

入湯後、飛鳥乃温泉向かいの郷土料理の店で食事。

市電で今宵のお宿・東横イン一番町に到着・宿泊。

 

12月1日(日)

食後8:00.

小雨の中をいざお城へ。空はどんよりしてうす暗い中を徒歩でケーブルカー乗り場へ。

ケーブルカーは、長者が平(ちょうじゃがなる)という場所に到着、ガイドさんと合流。(リフトもあったが悪天候で運休)お城めがけて坂道を歩きだす。

重要文化財である松山城は標高132mの勝山の上にあり、賤ヶ岳の合戦で有名な七本槍の一人・加藤嘉明が1602年に築き始めた城で、門・塀・櫓を多数そろえ、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた連立式天守を構えた平山城。江戸時代に建築された現存天守12のひとつで、100名城にも数えられている。またの名を勝山城・金亀城とも言われている。

1784年落雷により天守が焼失、1854年に再建された(パンフレットより)。

松山城の石垣の途中に排水溝が見えていた。打込ハギや算木積みの立派な石垣。門扉のない戸無門・隠門や筋鉄門(すじがねもん/門の柱に鉄板が貼ってある)など多数の門がある。天守閣には葵のご紋、一重・二重・三重とも鴨居と敷居で仕切られた畳床仕様で、天井板も貼ってあり床の間もある。

鴨居と敷居が柱と同じ幅なので幅広い。最上階の窓は格子がなく引戸窓、その外には外廻縁や高欄もあり格式が高いようだ。最上階は四方が開けて遠くまで見渡せる。

南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結してある連立式天守というからか、広いお城である。雨もあがった。

ケーブルカー乗り場前でガイドさんと別れ、発車時間まで茶店に入り甘酒で一服し、下山した。

駅には砥部焼の大きな甕で水琴窟が作ってあり、水をかけて、暫し幽玄の音色に耳を傾けた。長岡京の<「竹の学校」水琴窟>と音色が違っていた。(砥部焼は愛媛県砥部町を中心で作られている陶磁器。竹の学校の甕は常滑焼)

次に二の丸庭園に向けて歩いたが、長い上り坂を見ると疲れが出てしまい、荒木さん一人で二の丸庭園へ、他の人たちは愛媛県庁地下食堂でランチ。ほどなく荒木さんも到着。

食後「いよてつ松山市駅」へ。市電の坊ちゃん電車が停車中であった。

予定通り15:00発のバスで帰路についた。

定刻より約20分早く20:00頃到着。

リーダーの池田さん、行程調整や切符の手配、会員への連絡等々お手数をおかけしました。有難うございました。

第164回「お城へ行こう 第31回 大垣城(岐阜県)」報告(14期 大西さん)

2019年11月3日(日)

行先:大垣城(岐阜県)

行程:JR大阪駅 8:30発 近江塩津行き新快速→米原乗換→大垣着10:32

参加者:9名(池田(R)・川路・立花・田上・大谷・長澤・高橋・久米・大西)

 

報告:

今月は秋の1デイパスを米原まで利用、米原から大垣は別料金。

ボランティアガイドの会・伊藤さんと改札口にて合流。

大垣市は、松尾芭蕉が「奥の細道」を旅した「結びの地」として有名である。

大垣城へ行く前に、先ずは「ミニ奥の細道」へ案内される。

大垣城は湧水の流れる水門川を外堀として利用している。

その水門川沿いが「ミニ奥の細道」であり、20の句碑と説明文が整備されている。

それを見ながら進むと、外堀護岸の石の並びの見事さに目を奪われた。

形を揃えた自然石が、斜めに整然と並べてある。

水は湧水(湧き水)とあって、きれいで流れが早い。

街路樹には、見たことのない木「ヒトツバタゴ」の札のある並木、黒豆のような実がなっている。

同行の高橋さんが、別名「なんじゃもんじゃ」と言います、とのこと。珍しいので落ちていた実を拾った(そのうち植えたい)。

ガイドさん予約の寿司店で昼食、大垣城へ。

大垣城は1535(天文4)年宮川安定が築城(1495(明応9)年竹腰尚綱が築城した説もある)。

城門前に、戸田氏鉄公(ウジカネ)の騎乗姿の像がある。

戸田氏鉄公は摂津の国尼崎城の城主であったが、治水事業の手腕が認められ、1635(寛永12)年美濃国大垣藩の初代藩主となり、新田開発、治山治水事業、文教の振興などに尽力し、藩政の基礎を築いたとされる。

大垣城は1945(昭和20)年7月の空襲で焼失し1959(昭和34)年に昔の姿で再建された。

天守閣に上った。規模の小さな城で、四方が望めるが、非常に狭い。

美濃の国大垣は昔から水との戦いであり、1896(明治29)年の大洪水のときには大垣城天守の石垣まで浸水した。

「明治29年大洪水点」という石碑があり、石垣に洪水位のラインが彫ってある。

また石垣の石は近くの金生山の石灰石であり、2億数千万年前の化石がアチコチに見られた。

化石は、フズリナ・シカマイア・ベレロフォン・サンゴ・ウミユリ等とのこと。

探す楽しみがある。

この日、「元気ハツラツ市」が開催され大勢の人出である。

「城下町きもの園遊会」もあり、町は多くの和服姿の子供や艶やかな女性がいっぱい。

大垣は国内有数の湧き水がある町で、「湧き水めぐり」なるものもある。

そのうちの一つ、名水「大手いこ井の泉」で喉をうるおし、空になったペットボトルにもいただいた。

「京都アニメ作品に使われた場所」という水門川遊歩道、滝もあり非常によく整備されている。

大垣市守屋多々志美術館見学、住吉燈台、芭蕉が伊勢へ旅立ったという船町川湊、美濃路大垣宿本陣跡などを通り、美濃路街道を歩きながら大垣駅に向かい、ガイドの伊藤さんと別れ3時半ごろの電車で帰路についた。

帰宅後「奥の細道」の本を開けてみると、最後の「大垣」の注釈に「船町出舟、水門川・揖斐川をへて伊勢長島に向かう」との記載があり、その場所に行ってきたのだと、数百年前に思いを馳せた。

この日、外出前にメーリングリストで山村順子先輩の訃報を知った。

今回の会参加中、これまで幾度も幾度もこの会で山村先輩とご一緒した記憶が蘇り、皆で感謝し、偲びました。

第163回「お城へ行こう 第30回 丹波の国篠山城」報告(11期 原さん)

2019年10月6日(日)JR篠山口駅 午前10時集合

行先:篠山城

参加者:9名(川路・立花・尾崎・大谷・長澤・高橋・春日・原(R)・大西)

コース:

 往路:JR大阪駅8:30→尼崎 8:43→宝塚→篠山口9:44 神姫バスJR篠山口駅前10:10→二階町10:25→徒歩200m→篠山城 山城内大書院(10:35→ガイド約50分11:30) 篠山城跡内多目的広場で昼食11:40~12:20 

青山歴史村(デカンショ館)~大手前通り~二階町通り~歴史美術館~二階町バス停14:05→篠山口バス停14:25着

 帰路:JR篠山口駅発14:45に乗車 解散 宝塚・大阪・京都下車

 

報告:

篠山城(桐ケ城)青山家銭紋 平山城 築城者・徳川家康

関ケ原役後、徳川家康は実子である松平康重を丹波八上城へ転封させ、西国地方のおさえとして篠山城築城の工を起こした。

篠山城築城は、藤堂高虎(三重県津城主)を縄張奉行とし、約20候の西国大名に夫役を命じる天下普請によって行われた。

工事は1609(慶長14)年3月より開始し、本丸・二の丸・高石垣ができ、12月には康重が入城するという、一年足らずで完成した城である。

260年余の幕藩体制のもと、篠山藩5万石の政治・経済・文化の拠点としてその役割を果たしてきた。

明治の改革で、大書院だけは残し、建物の大部分は取り壊されたが、現在城郭の主体部をなす梯郭式縄張の高石垣と、これを囲む一辺400mが外堀、土塁馬出の遺構が残されている。

2000(平成12)年3月には二の丸に大書院が復元され、また2002(平成14)年4月には二の丸御殿庭園が開園している。

まず、大書院で四館共通入場券(大書院・青山歴史村デカンショ館・歴史美術館・安間家資料館)を購入。

大書院を案内してくれた3~40代くらいの男性ガイドは、要領よく話術も巧みで、よく理解できた。

昼食後、青山歴史村と丹波市立歴史美術館(旧篠山地方裁判所)を見学した。また、ここで開催中の地元の南画家・平尾竹霞)の特別展を鑑賞。

時間がないので、武家屋敷・安間家資料館見学は断念し、二階町バス停に向かった(ちょっと心残り)。

大手前通り・二階町通り(狭いバス道路)の両側には、栗・焼き栗・解禁になったばかりの丹波黒豆の枝豆売りの店、丹波焼の器、八百屋には蒟蒻芋も。

店の前には、それらを買う行列もあり、人出が多く賑やかだった。駅から遠いこともあって車で来ている人も多かった。

 

2000(平成12)年3月には二の丸に大書院が復元され、また2002(平成14)年4月には二の丸御殿庭園が開園している。

まず、大書院で四館共通入場券(大書院・青山歴史村デカンショ館・歴史美術館・安間家資料館)を購入。

大書院を案内してくれた3~40代くらいの男性ガイドは、要領よく話術も巧みで、よく理解できた。

昼食後、青山歴史村と丹波市立歴史美術館(旧篠山地方裁判所)を見学した。また、ここで開催中の地元の南画家・平尾竹霞)の特別展を鑑賞。

時間がないので、武家屋敷・安間家資料館見学は断念し、二階町バス停に向かった(ちょっと心残り)。

大手前通り・二階町通り(狭いバス道路)の両側には、栗・焼き栗・解禁になったばかりの丹波黒豆の枝豆売りの店、丹波焼の器、八百屋には蒟蒻芋も。

店の前には、それらを買う行列もあり、人出が多く賑やかだった。駅から遠いこともあって車で来ている人も多かった。

第162回「お城へ行こう 第29回 尼崎城と伊丹城(有岡城)跡」報告(11期 原さん)

2019年7月7日(日)阪神電車尼崎駅 9:30集合

行先:尼崎城と伊丹城(有岡城)跡

参加者:6名(川路・立花・渡辺・荒木・大西・原(R))

 

報告:

天候は晴れたり曇ったり。尼崎城は駅より南東5分のところにある。

昨年、家電量販店の創業者が建築し、市に寄贈され、2019年3月29日に一般公開となった。

江戸幕府は、1617(元和3)年、譜代大名・戸田氏鉄(うじかね)に、大阪の西の守りとするために尼崎城(平城)の築城を命じた。

天守は、四層四階建ての大天守に、西側に二階建ての多門櫓の小天守が付属する複合式天守と呼ばれる形式である。

歴代城主は、戸田氏鉄(5万石)、青山氏、(櫻井)松平氏で、1873(明治6)年の廃城令により城の建物は売却され、取り壊された。

城見学後には、城の西側にある寺町通りの法華宗大本山・本興寺に立ち寄ったのち、近くにある開明中公園で早めの昼食(弁当)をとった。

その後、阪神電車で梅田に帰り、JR宝塚線に乗り換え伊丹駅へ向かった。

伊丹城(有岡城)跡は、JR伊丹駅すぐ西にある。

国指定史跡・伊丹城(有岡城)は、摂津の守 荒木村重の居城。まちぐるみ要塞化した。

難攻不落の名城として知られ、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、「はなはだ壮大にして見事なる城」と記した。

1574(天正2)年織田信長の部将荒木村重が伊丹城を攻め、伊丹氏を追放、入城し有岡城と命名した。

村重は1578(天正6)年信長から離反した。黒田官兵衛が説得に当たったが、捕まり幽閉された。

その後、毛利方につき、一年近い戦いの末、翌年に落城、城・侍町は灰燼に帰した。

1975(昭和50)年以降実施された発掘調査により、土塁内の石垣や建物、庭跡等貴重な遺構が残されていることが判明。市は保存を決定。

国史跡に指定され、史跡公園として整備された。

今は狭い台地に木が繁り、古い石垣が少々と土塁と井戸の跡と建物あとの礎石が少々残っている。

「黒田官兵衛ゆかりの籐」も見て、街中を少し歩き、「白雪ブルワリービレッジ・長寿蔵」のレストランで「酒カススフレ」でお茶タイム。

JR伊丹駅に3時前に行き、ここで解散。それぞれ家路につきました。

第161回「お城へ行こう 第28回 松本城、上田城跡」報告(12期 原さん)

現存天守12城のうちの松本城と、上田城跡です。

 

日時:2019年6月9日(日)~10日(月)

行先:松本城(深(ふか)志(し)城)長野県松本市丸の内4番1号

  上田城跡(尼が淵城・真田城)長野県上田市二の丸6260番地

参加者:13名(池田(R)・川路・立花・田上・矢田・大谷・長澤・堀西・石飛・荒木・高良・長野より高橋(8期)・原)

 

行程:

 往路:6月9日(日)

阪急アルピコ交通・梅田高速バスターミナル発8:30→京都深草発8:53→松本バスターミナル着13:50→タクシーで松本観光情報センター→松本城見学→松本バスターミナル発 17:15(上田行路線バス)

→上田駅前着18:45→東横インホテル上田駅前 宿泊(一泊朝食付)

    昼食持参(バスの中で)、夕食は上田の飲食店で。

 

 復路:6月10日(月) 

ホテル出発8:30→上田城跡見学→上田駅発12:01(しなの鉄道線長野行き)→篠ノ井着12:32

→12:46発(篠ノ井線松本行)→松本着13:59→松本バスターミナル発15:00→新大阪着20:30

→大阪梅田着20:45昼食は列車内で食べる。松本城、上田城跡はガイド付。

 

報告:

 

6月9日(土)曇天

定刻に出発。前方の座席にかたまり座る。定刻に松本着。

今にも降りそうな空模様、時間がないので、城前にある松本観光情報センターまでタクシー3台で行く。

14:30頃男性ガイドさんと待ち合せして、さっそく掘り沿いを歩いて、太鼓門より黒門横の券売所でガイドさんに並んで(手違い、苦笑い)買ってもらう。

広々とした本丸御殿跡に入る。城は小田原の戦の後、1590(天正15)年豊臣秀吉の東国支配の拠点として1593~1594(文禄2~3)年(に石川数正・康長父子が築城したとのこと。

天守は木造五層六階、乾小天守、渡櫓、後に松平道政が優雅な辰已附櫓、月見櫓(以上国宝)、本丸、二の丸、内堀、外堀、総堀(史跡)がある。

野面積みの石垣、白漆喰の大壁に黒漆塗りの下見板、狭間、石落としなどが目立つ。天守の外観は質朴重厚で古武士の姿にたとえられるとのこと。

城見学を終えた頃より本降りの雨になった。タクシーでまたバスターミナルまで戻る。17:15発の上田駅前行き路線バス(土・日運行)で小雨の中出発。途中、山あいの温泉街を通り抜け、18:45定刻通り上田駅前着。

駅前横の東横インホテル上田駅前・宿泊地に到着し、荷物だけ部屋に置き、それぞれに夕食を食べに行く。

 

6月10日(月)の朝は曇天

ホテルで朝食をとり、徒歩10分弱の上田城跡の前にある観光会館で、男性ガイドさんと9:00に待ち合わせする。二の丸橋から入り、東虎口櫓の左右には、南櫓と北櫓が復元されていた。真田昌幸によって1583(天正11)年に築かれた平城だ。第一次・第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。大河ドラマ「真田丸」の舞台にもなった。

上田城公園の中の眞田神社、真田井戸、西櫓(長野県宝)を見て、帰りには上田市立博物館を見学した。

観光会館一階の売店でおみやげを買い、12:01上田発の列車で松本駅まで行き、バスターミナルから高速バス15:00に乗り、途中名神高速道工事の為、伊勢湾岸自動車道を通り、土山SAを過ぎた所で渋滞に巻き込まれ、1時間遅れの21:30ごろ新大阪到着。おのおの帰路についた。

第160回「お城へ行こう 第27回 飯盛山城(大阪)」報告(11期 原さん)

2019年5月5日(日・祝)晴

行先:飯盛山城 大阪府四条畷市

行程:JR四条畷駅10:00出発→15分 四条畷神社→15分 新道分岐→35分 飯盛山城史跡碑→7分 飯盛登山記念碑→10分 飯盛山城跡

 

参加者:10名(池田(R)・川路・田上・長澤・飯島・荒木・高橋・久米・原・大西)

 

報告:

今回はJR学研都市線四条畷駅に9名が集まり、ゆるい坂を徒歩15分の四条畷神社を目指して行った。

荒木さんは、みんなの昼食用豚汁のためのコンロや鍋を背負って、先に出発されていた。

今回ガイドは頼まず、池田リーダーの案内で四条畷神社裏の楠の大木を見ながら登り始めた。

登り口には杖が数本置いてあり、難儀な坂道が予想され、杖を借りた。(予め持ってきた人もいた。)

新道分岐まで来た。途中の古道は歩きにくいところがあり、新道を行くよう立て看板があった。

ところが、新道は段差の高い階段が行けども行けども続いており、「帰りに降りるときはもっと大変で、明日は筋肉痛になるだろう!」と話しながら、(一と百の会は、今日は80歳代3人、あとは70代後半・前半がほとんど。)40分ぐらいかかって、ちょっと開けた所に到着。

飯盛山史跡碑と視界270度の眺望に、ここで一息。(北端は比叡山・大阪平野が一望でき、好天気には六甲山・明石海峡大橋・淡路島・四国まで望めるらしい。)

また急な階段を登り、10分ほどで休憩所(上は展望台)に着きリュックを降ろし、山頂(314m)の飯盛山城石碑にたどり着いた。

飯盛山城は、天下人・三好長慶が1566年(永禄3)入城、戦国時代の終わりごろ、大阪を中心に、四国・瀬戸内・日本海にも勢力を拡大した。

山頂には、飯盛山山麓の四条畷合戦で戦死した楠木正行(小南公)の像が建てられており、その前で集合写真を撮った。

12時ごろから、池田さんが用意してくださった材料と、柳楽坦さんの形見の鍋やコンロで豚汁づくり。美味しい豚汁とお握りで昼食を摂った。

帰途、山頂城跡の所々にある崩れかけた石垣を見学して、階段なしの古道を注意深く降りた。

四条畷神社でトイレ休憩。ゆっくり四条畷駅まで歩き、3時過ぎに解散した。

<特別プラン>「タケノコ堀り」報告(18期 郷原さん)

2019413日(土)9:3012:00

場所:長岡京の竹林

参加者:12名(川路、尾崎、原、池田、大西、石飛、長澤、板倉、高良、荒木、山本、郷原)

 

報告:

好天の下、長岡京の竹林のタケノコ掘りに行きました。

阪急長岡天神駅から徒歩で、25分程のところにあります。

この竹林は、4期の杉谷さんが荒れた竹林を憂いて、竹林の回復、保護を思い立って、NPO法人を立ち上げられました。その思いに賛同されて参加された、7期川路さん、尾崎さん、11期原さん、12期池田さん、14期大西さんらの一と百の会のメンバーは、殆ど週一回で、手入れをされています。

そして、毎年、この時期にタケノコ掘りを企画されています。

最近は、TVでも長岡京の竹林のタケノコが放映されているように、この地域はタケノコの産地として有名でもあります。

私は、タケノコ堀りに魅せられ、近くの高槻に住んでいることもあり、この企画に10年近く毎年参加しております。

掘るにあたって、タケノコの生え方、道具の使い方などを教えてもらいましたが、実際にやってみると、鍬で掘るのに少し腕力やコツが要ります。焦るとタケノコにキズをつけたり、タケノコが折れたりしますので、根気と慎重さも必要です。それでも、うまく綺麗に掘り出した時は、嬉しく達成感に浸ります。

今年は、天候不順の影響か、昨年と比較して少なく、しかも小ぶりでした。約2時間程で掘り出したタケノコを計量してもらい、割安な価格で、入山料と合わせて精算します、これも少しでも竹林の保護資金として役に立てばとの思いです。

帰りには、長岡天神に立ち寄り、まだ満開状態の桜を楽しみました。

今年も、美味しいタケノコ料理が頂けると思いつつ帰路につきました。